石工(いしく) 丹波佐吉
巨木めぐりの一環で、稲荷神社のモミを見に行った時のことである。
そこにあった狛犬(石像の狐)に、何か引かれるものを感じた。
離れて見ると輪郭の柔らかさから、木像のようにも見えるが?
近くで見ると確かに石像の狐である。
横にあった説明板には、名工とうたわれた 丹波佐吉の作である。
と書かれていた。
はて丹波佐吉とは? どこかで聞いたことあるような名だが
後で思い出したのだが・・・
それは以前に行った柏原八幡神社の狛犬が、丹波佐吉の作だったのである。
これまで狛犬には興味が無かったので、そのことはすっかり忘れていた。
“丹波佐吉” とは覚え易い名前! 2度も聞けばもう忘れることは無い。
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帰ってからネットで佐吉のことを少し調べて、まとめてみました。
(主には “石工 丹波佐吉と大和” を参考にした。)
1.佐吉は生涯孤独であった
佐吉は文化13年(1816年)に
但馬国竹田(現朝来市和田山町)の貧家(日下家)に生まれた。
幼くして両親を亡くした佐吉は、叔父の家にあずけられた。
子の無かった石工 金兵衛は 哀れと思ったのか、佐吉を養子にした。
こうして佐吉は名工・難波金兵衛(丹波大新屋村:現丹波市柏原町)の、養子となる。
このとき佐吉5歳であった。
2.佐吉めきめき腕を上げる
もとから才能のあった佐吉は石工・金兵衛の下で、めきめき腕を上げた。
後の天保8年(1837年)に、金兵衛の子(2代目金兵衛)が生まれる。
(やがて2代目金兵衛も、佐吉に負けぬ名工となる。)
その後佐吉は自ら金兵衛のもとを離れ、“村上源照信” を名乗り渡りの石工となる。
このとき佐吉23歳であった。
佐吉は、大和、伏見、大阪の各地で修行を続けた。
酒は飲まず妻は迎えず仕事に一意専心の姿勢
師、育ての親である金兵衛の恩は常に忘れず
己が郷里はと問われれば、かならず丹波大新屋なりと答えた。
よって人皆これを丹波佐吉と称した。
3.丹波佐吉 日本一
大阪にいたころ石でもって尺八を作ろうと、仲間同士で技を競い合った。
ついに一人作りあげた佐吉は 孝明天皇に献じたところ、天皇から日本一と賞賛された。
(機械の無かった時代に、どの様にして石に細長い穴をくり抜いたのだろうか?)
柏原を離れた佐吉は柏原の恩人からの依頼で、柏原八幡神社の狛犬を作る(1861年)。
それから5年後 佐吉は柏原に戻り、 不動明王像を作る。
病に侵され、死を覚悟した中での制作だった。
事実上最後の作とされる不動明王像を作りあげて、 佐吉は柏原を去った。
その後の佐吉の消息は不明である。
(2014年10月)
現在6代目の難波金兵衛石材店(丹波市柏原町大新屋)
残念ながら我が近隣および兵庫県において、佐吉の作品は数少ないです。
★ 摩気神社の狛犬(南丹市園部町)
★ 大燈寺の聖観音(丹波市青垣町)
★ 八幡神社の狛犬(丹波市柏原町)
★ 稲荷神社の狐像(丹波市柏原町)
★ 平井大師山・石仏群(奈良県宇陀市)
★ 法正寺の地蔵像(奈良県宇陀市)
★ 神楽岡神社の狛犬(奈良県宇陀市)
★ 観音山・西国三十三所石仏群(三重県亀山市)
★ 楊谷観音堂の千手観音(奈良県大和郡山市)
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